Longform Note
文と理と世界観について
坂本忠恆によるスペース内容をもとにした長文ノートです。
口頭の内容をもとに整理した記録のため、言い回しの揺れや聞き取りづらい箇所が残っている場合があります。
2023.12.9 今日は初めての試みとして、独り言スペースということでお話しします。具体的な内容は事前に決めていないのですが、このスペースの名前にもある「文」と「理」と「世界観」について話す予定です。このテーマは深く考えて選んだわけではありませんが、それについて少し話そうと思います。 もしかすると話が逸れるかもしれませんが、温かい目で見守っていただければ幸いです。元々は「科学と魔法について」というタイトルで別のスペースを考えていましたが、話が長くなりすぎそうだったので、このテーマに変更しました。本日は約1時間、ノンストップで話す予定ですが、時間感覚が苦手なため、予定時間を超える可能性もあります。もし話が長引いても、途中で離脱していただいて構いません。録音も残しておくので、後で聞くこともできます。 このスペースを開くことにした理由から話を始めたいと思います。今回の「独り言」は自作の朗読ではありませんが、話される言葉としての言語のプリミティブな性質に一時的に回帰する実験的な試みです。どんなことが起こるか自分でもわからないのですが、興味を持って取り組んでいます。 このスペースを開く動機の一つには、書かれた言葉と話された言葉の違いに対する関心があります。特に文学において、口頭で伝えられる伝統がありますが、現代では書かれたものとしての言語の習慣が凝り固まっています。自作を朗読することはほぼタブーとされていますが、今回の独り言では、その概念を少し変えてみたいと思います。 私の文学は、私の思想そのものよりも生き生きとしていると感じます。書かれたものと話されたもの、書かれた言葉と言葉になる前の思想には違いがあります。話された言葉は、その場で消費される行動的な要素を含んでいます。これは優劣の問題ではなく、異なる性質を持つということです。 以上が、今日の話の概要です。具体的な筋立ては決めていませんが、話し始めると思わぬ方向に話が進むことがあるので、その点をご理解いただければと思います。 私は通常、自分の書かれた文章を元に話すことが多いですが、今日は話す内容について事前にしっかりとメモを準備しています。このメモを参考にしながら、オーラルな、口頭での話の性質を損なわないように進めていきたいと思います。 ただ、話が少し逸脱することもあるかもしれません。今回は実験的なスペースとして、偶然性も含めて話を進めていきます。具体的には、スペースの名前にある「文と世界観」に関連する話をします。最初に「世界観」の話から始めて、全体的に関連する内容に触れたいと思っています。 このスペースの名前は少し意味深ですが、聞く際はそこまで緊張せず、話半分で聞いていただければと思います。このスペースは、私の個人的な関心事から始まっています。背景音楽や環境音くらいの気軽さで聞いていただければありがたいです。途中でミュートにしても、抜け出しても問題ありません。 今日は実験的なスペースで、個人的な話に終始しないように普遍的な意味を持たせた話を心がけます。聞く人によっては複雑な話に感じるかもしれませんが、私の世界の見方や態度から話を広げていきます。最終的には私が伝えたいことが理解できるように話すつもりですが、どの程度伝わるかは自信がありません。お付き合いいただけると嬉しいです。 まず、この世界の見方としての「世界観」から話を始めます。この世界に属する個人として、私はどのようにこの世界を理解し、関連づけているかを話します。この点について、私は「再帰」というキーワードを持っています。これは小説以外の文脈でも使用しており、「リカージョン」という英語の言葉でよく表されるものです。この再帰、つまり「再び帰る」という概念に基づいて話を進めたいと思います。 今日は再帰について、身近な例を挙げて説明しようと思います。たとえば、再帰的頭字語を用いた名称の例として、クレジットカード会社の「ビザ」があります。調べたところ、「ビザ」は「BankCard International Service Association」の略です。この例では、「ビザ」を説明するために「ビザ」という言葉が含まれており、これは再帰的頭字語と呼ばれます。 再帰というのは、ある事物や物事を定義する際に、その事物自身がその定義の中に含まれる状態を指します。今回私が使う再帰という言葉は、辞書的な意味で限定されていませんが、この概念を基に話を進めていきます。 この再帰の概念を手掛かりにして、世界を理解しようとするのが私の世界観です。これは私独自の立場ではなく、一般的に用いられる態度ですが、世界の構造や理解に再帰を当てはめることで、これを1つの表現としています。 例えば、科学の世界において、我々の目の前で起こる現象や事象は、ニュートンの運動方程式などを用いて表現できます。これらは質量、長さ、時間などの物理量単位で表され、宇宙規模や原子レベルの世界では相対性理論や量子力学になります。私たちの日常における観測可能な世界は、基本的に古典力学で説明できます。 科学の話を切り口にして、次の話に移ります。科学、特に古典力学は、再帰構造を持っています。具体的には、ニュートンの運動方程式を例に挙げることができます。この方程式は、力の解析学的表現として質量と加速度を用いています。この式を紐解くと、キログラム、メートル、秒という物理量単位で表現されることがわかります。 このニュートンの方程式で表現される世界は、我々が目で捉えられるスケールの事象を基本的に記述できます。ただし、より複雑な系、例えば流体の挙動などは複雑な式や計算が必要になる場合があります。 科学の世界では、流体のような複雑なものを扱う際、しばしば近似や試行錯誤が行われます。特に応用科学や工学の領域では、自然科学の理論を厳密に当てはめることが難しいため、実用的な方法を採用することが一般的です。 たとえば、機械工学では、力学を基礎として物の特性を学び、それに基づいて機械などを設計します。ここでも運動方程式が基礎になりますが、これはあくまで1つの表現に過ぎません。運動方程式は世界を記述するためのツールであり、再帰的な構造の1つの例です。 この世界は非常にシンプルな方程式、例えば F=ma に基づいて記述されています。これは物体の質量と加速度に対する力を表しており、その他の複雑な仕組みも基本的にはこのようなシンプルな要素から成り立っています。 遺伝子も同様で、生物学や化学は物理学的な相互関係に基づいています。遺伝子は数メガバイトの情報で生物の体をデザインし、その複雑な構造を記述しています。これは、DNA塩基配列の組み合わせによるもので、人間の肉体の形状や臓器の配置もこれによって決まります。 科学は、真理を探求する過程ですが、真理そのものは捉えがたいものです。科学は観測可能な事実に基づいて人間が与えた表現の1つに過ぎません。地球外知的生命体も異なる表現方法を持つ可能性があります。 コンピューター科学も再帰的な世界観を持つ学問の1つです。コンピューターは自然法則を基にしていますが、その上に人間の認知や設計が乗っかっています。コンピューターは主に2進数で動作し、これは人間にとって使いやすいからです。つまり、コンピューター科学は人間の作為的な要素が強い分野です。 科学全般は、人間が真理に向かって手探りで進むプロセスです。科学者は、自然法則や真理の柱にぶつかり、それを理解し再構築する作業を行っています。科学は、自然科学だけでなく形式科学にも当てはまり、人間の意志とは無関係に存在する世界の真相を探求しています。 こうして、科学は我々に理解可能な形で、世界を再構築するアートのような作業です。それは、我々が共感できる、あるいは理解できる形で展開されます。科学は、現在普及しているデジタルコンピューターのように、人間にとって使いやすい形で自然法則を表現する学問です。 コンピューターが0と1の単なる羅列を超えて意味を持つためには、有限個の操作を組み合わせる必要があります。0と1の数字の羅列と決められた操作によってコンピューターは制御されます。これらの操作はコンピューターのプログラミング言語で定義されており、物理的な回路を通じて0と1の電子情報が操作されます。 電子の羅列、0と1の組み合わせは、データとしての性質を持ちつつ、自体を操作する情報として機能します。例えば、オア演算やノア演算などがこれに該当します。これらの有限の操作によって、0と1の羅列を操作し、書き換えることがコンピューターの基本です。 コンピューターの原始的な要素は0と1の組み合わせですが、これを組み合わせることで現代のアプリやツールが作られています。例えば、スマートフォンのアプリもこれに基づいています。 初期のコンピューターは真空管を使った物理的な操作に依存していましたが、システムが複雑化するにつれ、人間の頭と手では追いつかなくなりました。これに対応するため、より抽象化された言語、例えばアセンブリ言語が開発されました。アセンブリ言語は、0と1の組み合わせとその操作を記号に置き換えて表現するものです。 しかし、アセンブリ言語だけでは大規模なシステムの構築が困難でした。そのため、さらに抽象化された高級言語が開発されました。これらの言語は、より自然言語に近い形式でコンピューターを制御するためのものです。 例えば、Python言語はc言語を基にしており、さらに高度な抽象化を実現しています。また、Python自体を実装する技術も存在し、これは再帰的な構造を示しています。 現代のAI技術は、自然言語に近い形で操作ができるように進化しており、これはコンピューターの進歩の一例です。例えば、OpenAIのGPTシステムは、自然言語での対話によってコンピューターの振る舞いを定義することができます。 コンピューターの世界は、0と1と有限個の操作から始まり、再帰的な再定義を繰り返して自然言語を扱えるようになりました。これはコンピューターが人間の作り出したもう一つの自然として機能していることを示しています。 コンピューターの中でのシステムや自然言語処理、AIは、驚くべき再帰的な構造の元に作られています。これは、コンピューターが現実世界の模倣としてデジタル世界を構築していることを示しています。 私が「再帰」という概念を世界を理解する一つの手段として用いているのは、私自身が学問的な背景を持っていることに関係しています。再帰は世界を捉える上で非常に便利なツールであると考えています。この考え方は、自然科学や形式科学の世界で表現されることが多いですが、コンピューターの中の意図的に構築された世界と、我々の目の前にある自然科学の世界が異なるように思えても、両者は世界を表現するという点で共通しています。 この世界観は、自然科学と形式科学の領域に限られており、人文科学の領域はこれまで考慮してきませんでした。しかし、世界観は両方の領域を包含する必要があります。片方だけの認識は偏った世界観となってしまうため、両方の視点を取り入れることが重要です。 科学的な知識の分類においては、理系と文系という大きな分け方が存在します。例えば、自然科学では再現性、反復可能性を重視するのに対し、文系的な知識にはそのような特性がないと考えられています。この再現性がないという点は、文系的な知識が体系を持たない、とも解釈できるかもしれません。 西村博之氏と哲学者アズマヒロキ氏の対談で、西村氏は文系的な知識の有用性に疑問を投げかけました。文系的な知識が再現性を持たないため、その知識をどのように体系づけるかが問題となります。これは、知識の体系化において理系的なアプローチだけでは不十分であることを示しています。 この議論は、自然科学における実験と理論の方法論に由来します。例えば、ガリレオは観測可能な事象を手掛かりとして数学的に表現し、自然現象を理解しようとしました。しかし、この方法論は理系的な知識には適用可能ですが、文系的な知識には適用できない問題があります。 ニコニコ超会議でのブースでの議論では、理系的な科学の優位性や有用性は理解されていますが、文系的な知識や知性の意義については疑問が投げかけられていました。文系的な知識が再現性を欠くため、その知識の意味や価値をどのように捉えるかが議論の中心でした。この議論は、文系的な知識の有用性を再考する重要な契機となります。 「再帰」という概念を学問として成り立たせるためには、理系的なものの体系が非常に理解しやすいことが重要です。これは、反復可能なものに基づいて蓄積され、体系を作り上げることに由来します。 自然科学において、特にガリレオが提唱したような、観測可能な事象を基にした数学的表現は、自然現象を捉える方法として有効です。このアプローチは、反復可能な事象に焦点を当てる自然科学の特徴を反映しています。 数学の世界においても、公理主義的なアプローチがあります。これは、例えば、ヒルベルトが提唱した公理主義に基づく数学的体系構築の方法です。公理主義は、定義された公理に基づいて論理的な定理を導き出すアプローチです。公理自体は定理のような証明の対象にはなりませんが、公理から導かれる定理は、同じ公理に基づいていれば、常に無矛盾に同じ結論を導き出すことができます。 一方で、文系的な知識について考えると、例えば、文学作品の作者の意図を読み解くような課題は、反復不可能なものの一例です。読者によって解釈が異なり、詳細に関しては千差万別になる可能性があります。 西村秀雄氏とアズマヒロキ氏の対談では、文系的な知識が再現性を持たないという点が議論されました。この点から、文系的な知識が再現可能な知識に変化する可能性についても議論されました。理系的な知識は反復可能な知の体系を持つ一方で、文系的な知識はそうではないという主張がなされました。 しかし、すべての反復不可能な知識が研究され尽くされた場合、それらがすべて反復可能な知識に変わるかという疑問が提起されました。私は、反復不可能な知識がいつも反復可能な知識に変わるとは限らないと考えています。人間の理性には限界があるため、すべてを反復可能な知識に変換することは不可能だと思います。これは、知識のあり方に関する哲学的な問題にも触れる部分です。 我々の世界を認識する能力には限界があることから、反対的に導かれる結論が存在します。人間として、私たちが見ている3次元空間と流れる時間、嗅覚や聴覚など、すべてを包括した認知に基づき、透明な柱を表現しています。人間の知性は、限りなく再現可能な体系を構築できるかもしれませんが、不可知の社会は残るでしょう。可能な範囲で起こり得る事象を反復可能な地に落とし込むことはできるかもしれませんが、それは私たちの認識の中に閉じた経緯の中での話です。これまで考えた時に、我々が思考するべき事柄は、認知の限界の中で完璧な無矛盾な経営の中にあると考えられます。しかし、果たして、そういった事態があり得ないと言えるだろうかという疑問があります。 この世界はどのような可能性として我々の世界観に存在するかを考えると、反復可能、不可能な知識は重要な意味を持ちます。ニコニコ超会議の議論を例に挙げたように、この問題に適切にアプローチするのは難しいですが、ゲーデルの不完全性定理が糸口を提供する可能性があります。ただし、私の勉強不足から、この議論を広げるのは躊躇われます。 理系的な知識の拡大と文系的な知性の純化という2つの観点から考えると、理系的な知識の拡大は反復可能な知識領域を増やすこと、一方、文系的な知識は反復不可能な領域を純化する役割があります。反復不可能なものを理系的な知性の領域に追いやり、反復不可能な世界を純化させることにより、我々の理性では知り得ない領域の限界点に近づくことができるかもしれません。 言語芸術の危うさと位置づけを考慮すると、一方の極端な見方に偏りすぎるリスクがあります。知識の拡大を理系の観点からだけでなく、文系的な観点からも考慮する必要があります。理系的な知識の拡大と文系的な知性の純化は、知の知性のあり方として重要な役割を持っています。 言語自体の危うさを考えると、我々の言語能力は、言葉を破棄しているはずであり、全てを投げ出してしまう恐れがあります。現在、この問題について明確に述べることは難しいですが、理系的知識の拡大と文系的な知性の純化は、想定として考慮に値します。これらは想像と違像の関係にあり、限界や極限の概念を超えた知識の取り組みが求められます。 例えば、数学において極限や無限大などの概念は、イプシロン-デルタ論法などの論法により、論理的に捉えられるようになりました。これは科学の進歩を示していますが、文系的な学問と理系的な学問は、それぞれの限界を見極め、極限に到達しようとする作業が重要です。言葉の使用においても慎重であるべきですが、限界点を見極めることは、知識の探求において重要な役割を果たします。 再現不可能なものを反復可能な領域に押し込むことは、数学で論理的に扱うことが可能です。しかし、我々の感覚では、極限や無限といった概念を完全に捉えることは難しいです。無限という概念は、感覚的におぼろげに捉えることはできるかもしれませんが、完全には理解できません。これは、我々の生きる時間や空間が有限であるためです。 無限や極限を物理的に完全に捉えることは理性では難しいです。ただし、数学では、イプシロン-デルタ論法などを用いて無限や極限の概念を矛盾なく組み立てることができます。これらの概念は、まるでベールに包まれたブラックボックスのようなものであり、感覚でおぼろげに捉えることは可能ですが、それが真実かどうかは不明です。私自身は感性を論理に優位に置きたいと考えていますが、これも確信には至っていません。 文学は科学的な営みの裏側として存在し、表裏の構造を持ちます。この表裏構造は、再帰構造の一形態と考えることができ、言語芸術の危うさと希望の両面を持ち合わせています。音楽においても、美という概念は反復可能な要素を含んでいますが、その全てを科学的に押し広げることは不可能です。 言語芸術では、言葉が反復可能な要素を含む一方で、美という概念は反復不可能な領域を表現するものです。美は、反復可能な世界と反復不可能な世界の間の境界線で磨かれ続けるべきものです。私の持っている世界観は、このような美の超越性を重視しており、文学的な創作においてもこれを念頭に置いています。ただし、これはあくまで私の願望であり、実際にそれが可能かどうかは未知の領域です。美については、反復可能な世界と反復不可能な世界の間で常に磨き続ける必要がありますが、これについても、現時点では確かなことは言えません。美に関してのみならず、私の持っている世界観は、維持し続けなければならないものです。 長くなりましたが、以上になります。